ある一日・朝の巻①

ある一日のバカの記録である。
一人称でなく、三人称で書いてみた。バカが際立つと思って。

では、第一回。

ある一日・朝の巻①



 朝5時半ごろ、新宿三丁目都営地下鉄駅にもぐってゆく男がいる。
 シャッターが上がってすぐの階段や地下道には、まだ人影は少ない。
 男はあごに手のひらをあてて伸びたひげの感触を確かめながら、パスネットのカードを改札機にすべりこませる。いくつか並んだ改札機の端にある係員のボックスでは、駅員があくびをしながら仕事にとりかかろうとしている。
 男は構内に入ったが、すぐホームへの階段を下りるわけではない。まずは、トイレに向かう。
三つある鏡のうち、比較的まともなやつの前に立ち、映った顔をながめる。徹夜明けの疲れた顔は、自分のものとは思えない。バッグから簡単な二枚刃の剃刀を取り出し、蛇口をひねって水を出すと片手でそれをすくい、顔の下半分を濡らす。ていねいに刃を当ててひげを剃ると、くすんでいた顔色が多少は明るくなり、生き返るようだ。
 ゆるめていたネクタイを締めなおすと、バッグをつかみ、歩きだす。長い階段を下りる姿は、元気いっぱいとはいいがたいが、よれよれというほどでもない。
 ホームのプラスチック製の椅子に腰をおろし、しばらく目を閉じていると、やがて、その朝何番目かの電車が入ってくる。いくら早朝とはいえ、始発駅から約一時間、30近い駅を通過してくると、相当数の乗客が車内に溜まるのは必然だろう。
 空いてる座席に腰を落ち着けると、バッグを両手で抱え込むようにして腿の上に置き、あごを落とす。仮眠するつもりなのだ。地下鉄の車両の中は寒気が差し込むことはなく、足元からじわりとぬくみがのぼってくるので、眠りに落ちるのはあっという間だ。問題は睡魔のおもむくままに顔やからだを動かし、あられもない格好をなるべくしないよう、予防することだけだが、あごを引き締めたのと両手でバッグをしっかりかかえたのが、その最低限の措置だ。
 よく電車の中で他人の寝姿を見るが、美しい女ならともかく、他人の眼を意識したことがないとしか思えない男の姿は、醜態である、と彼は考えている。その実、彼自身、ぐっすり寝入ってしまって横の人に頭を持たせかけたかっこうで目覚め、あわてて詫びたこともある。そういうとき、目覚めるのは、たいてい横の乗客が迷惑そうな動きをしたからなのだが、彼はそれをねぼけたふりでごまかしてしまう。車中で眠った他人が頭を自分にもたせかけてきたら、だれだって気分はよくないだろう。場合によっては手で強く頭を押し戻したりするものだ。
 仮眠の段階から爆睡の段階に入ってしまうと、ほとんど自制はきかなくなる。あごが上がり、口がだらりと開き、かかえていたバッグがずり落ちたりする事態などはなんとしても避けなければならない。
 ほんのひとねむりで、地下鉄は終点に到着する。時刻は午前6時15分あたりだ。乗客はほとんどいないがぱらぱらと降りてゆき、がらんとなった車内に新たな通勤客が乗り込んでくる。彼は降りるふりをして、車両の隅に移動する。終着駅は始発駅。そこから他方の終点まで、もう少し長い時間眠り込む体勢に入ったのだ。