ある一日・朝の巻④

土日と三熊野詣で、してきましたじゃ。熊野三山。最初に行った那智の滝、水量は少なかったけど、感動的な高さでした。そして、紀伊半島の山って想像以上に急峻でした。ここは、やはり逃げ場によさそうだね。歴代の天皇上皇がここにこもると、外から攻めるに攻められなかったろう。山で動くには独特のきびしい訓練を経た身体の持ち主が有利であり、修験者のなかから伊賀甲賀根来などの忍者衆が生まれ、山にこもった尊きお方を守って活躍することになるわけだ。
さて、聖地の空気を吸ってきて、きょうは元気いっぱいだ。朝の巻、続きいってみよう。ところでヴェローチェのコーヒーって、この二、三年で税込み157円から160円に上がったらしい。そういえば最近一円玉のおつりが減ってる気がする。


ある一日 朝の巻④

 ドトール、ヴェローチェ、カフェ・ド・クリエ、プロント、それからタリーズスターバックス、まだまだあるが思い出せなかったり正確な名称がわからなかったりするので、そのくらいにしておこう。街から珈琲館やルノアールなどいくつかのチェーンを除くほとんどの喫茶店を駆逐してしまったコーヒーショップ群だ。
 それまで400円から500円くらいまで相場が上がっていたコーヒーの値段を一気に150円から230円程度に下げ、しかも味はまあまあ、というか、案外ていねいに淹れてくれたりする、というのであれば、消費者がそちらに傾くのもしかたがないといえるだろう。無論、これに先立ってマクドナルドやモスバーガーなど、二階に上がってしまえばあとはコーヒー一杯で好きなだけいられるハンバーガーショップの蔓延も、普通の喫茶店にとっては痛打だったにちがいない。
 出勤前、そして外歩きの途中、食事のあとのくつろぎタイム、など気軽に入れて立ち飲みもストゥールやテーブル席もあるこういったコーヒーショップは、もはや都会生活に不可欠といっていい存在になっている。そして、店同士の激しい競争によって店内のスペースや椅子がどんどん改良され、居心地がよくなっているのも近年の傾向だ。
 彼の勤める会社の近所にあるヴェローチェも、ゆったりした空間が売りになっている。さほど人通りの多いところではないので開店当初は閑散としていたが、ビジネスマンやOLたちは一度そこをみつけて気に入ったら繰り返し通うようになる。そこも日を追って込むようになり、昼過ぎなどは入れないことも多い。
 しかし、朝の9時半という半端な時間だと、さすが客は少ない。彼がカウンターに近づくと、すぐ声をかけられた。「いらっしゃいませ、なににいたしましょうか」「エスプレッソ」「はいエスプレッソですね、店内でお召し上がりですか?」「はい」「ヒャクゴジュウナナエンいただきます」(小銭を出す)「ごゆっくりどうぞ」
 エスプレッソの小さなカップが置かれたトレイに灰皿と水入り紙コップを載せて、彼は喫煙可能なコーナーに向かう。彼はこのところ、コーヒー通の友人が書いた『エスプレッソの原理』という私家版の冊子を読んだせいか、やたらエスプレッソを飲みまくっている。影響されやすい性格なのだ。どこのコーヒーショップでもエスプレッソ。暑くても涼しくてもエスプレッソ。よほどその友人の文章がおもしろかったのだろう。実際のところは、おもしろいというよりは「怪著」と呼ぶほうがふさわしい内容で、ドトール町田店にうるさい客として通いつめた数年間の記録であると同時に、「アルカロイド前頭葉」というテーマで漢方から人類の進化論・文明論にまで及ぶ壮大な読み物なのだ。しかも、まだ「序章」ときている。
 さて、彼はエスプレッソを一息でのみほし、容器の底に少しばかり残った濃い液をミルク二つで薄めながら、タバコを一服。そろそろ出社したあとの予定がいくつか頭蓋の中を行ったりきたりし始めたらしく、顔つきがひきしまってきた。
 エスプレッソの香りのついたミルクを口に含み、トレイを持ち上げると、席を立つ。使用済み容器の置き場のところで、最後に水をぐっと飲んだら、いよいよ出勤の体勢が整った。店を出て、会社までは数分の距離だ。