ある一日・昼の巻③

きのうは暑いくらいだった。
三寒四温どころの騒ぎではない。日によって10度から20度も
気温が変化する。梅や桜も咲くタイミングがわからなくて、
困っているだろう。
それより去年から我が家の入り口を飾っているエリカの花は、
今年も無事咲いてくれるだろうか。


ある一日 昼の巻③


彼のケータイは、通常は「マナーモード」に設定されている。これは、着信しても音が鳴らず、ぶるぶると震えるだけだから、周囲を驚かすことはない。彼自身も、着信に気づかないことが多い。ふと見ると着信のしるしと相手の名前や電話番号が画面に浮かんでいるので(「非通知」や「公衆電話」などという表示の場合もある)、かかってきた相手次第で、返信したり、しなかったりしているようだ。
 ところで、そのケータイは、会社から支給されたものだ。彼のデスクには、いわゆる卓上電話がない。いや、彼ばかりではなく、どのデスクの上にも普通の電話がない。ケータイしかないように見える。実際には、卓上電話に代わる受信装置がそれぞれの島に設置されていて、各部や班への電話はそこから各自のケータイに落とせるようになっているらしい。この「落とす」というのがなかなか説明しにくい。ケータイのコメ印を二回押して受信ボタンを押すと、代表電話にかかってきたものをケータイで受けることが出来るのだ。なんだか煩雑だが、もう何年もそれで通っている。
 ケータイが支給され、パソコンが持ち運び可能な「ノート型」になったとき、彼は続いて机(デスク)もなくなるのでは?と思った。いや、そればかりではない。その想像の延長で、「いずれ、オフィスそのものが無用になり、事務所というか、社屋がなくなってしまうのでは?」ということまで考えてしまった。つながったパソコンの中にしか、社屋がない、バーチャル・オフィス。SFみたいだが、それもまたおもしろそうだ。じっさい、見栄はって豪華な自社ビルなどを建てると、とたんに会社の業績が落ち始めたりするものだ。だが彼の会社では、オフィスのめぼしい変化はその後なく、パソコンを前にしたデスクでの作業は相変わらずのようである。
 彼のケータイを振るわせたのは内線で、営業部からだった。いま彼が手がけている本の進行具合を聞かれたあと、事前に取次店や有力書店に案内を出したいが、内容のわかる資料はないか、という問い合わせだった。要するに彼に対して「ヒアリング」したいということだ。彼は5分後に打ち合わせすることを了解する。机の上からその本のカバーのだいたいの感じがわかるものと、本文や目次、前書きなどのゲラを持ち、パソコンの画面を閉じて、一階のロビーに下りてゆく。