ある一日・昼の巻⑤

これはどうやら本格的な風邪みたいだ。
土日で治そうと思ったがだめだった。からだがふらふらしている。
きょうもはやびけかな。


ある一日 昼の巻⑤


 エレベーターで五階にあがると、彼はトイレに入った。
 便座に腰を下ろすと、長年の習慣で、まずウォシュレットをつかってしまう。お湯の刺激を直接肛門に当てることで、「待ち」の時間を短縮するつもりなのだ。昼食前の半端な時間なので、便意が充分盛り上がっているとはいいがたい。だがウォシュレットの刺激ですんなり直腸が動きだすことも多い。
 肛門の粘膜が直接刺激される感覚は、この装置がだいぶ前、戸川純のCF「お尻だって洗ってほしい」で爆発的に普及し始めた当時から、ちょっとほかでは味わいがたい不思議なものだと思っていた。そういえば、あれは最初、単にウンチをし終わったときにその周辺を洗うためのものだったのだ。紙で済んでいたのにわざわざ温水を持ち出した意味は、温水で洗うほうが清潔だ、ということなのだろうか。まあ、多少は清潔かもしれない。でもそれだけでこれほど普及するものだろうか。
 実際につかってみると、清潔さはどうでもよくて、単に気持ちがいいのであった。だが、それだけではなかった。たまたま、温水で洗うと妙に気持ちがよくなって、その気持ちよさが直腸を刺激したのか、追加がにょろっと出てしまう、ということがあった。そうするともう一度洗いなおさなければならない。また気持ちよくて、もう出ないだろうと思っていたものがまたちょっと出た。それはなんというか、かの数学上の大問題「アキレウスと亀(アキレウスはどうしても亀に追いつけない。なぜならアキレウスが亀のいるところまで到達した時、亀は必ず少しその先にいるからである)」を想起させるに充分な事態であった。つまり、ウォシュレットには排便促進機能があったのだ。そのことに気づくと、以後、彼は、ウォシュレットつき便座に腰を下ろすたび、とりあえず温水のボタンを押してしまうようになった。
 その後、彼は、ふとした機会にイナガキタルホなる怪人の文章に触れた。すると、その御大が「A感覚」と名付けて精緻に分析したものは、まさしくウォシュレットでお尻を洗うたびに自分が味わっている感覚と同一か、あるいは少なくとも似ているんじゃあるまいかと思うようになった。イナガキさんにとってかくも大事な感覚を、俺はウンチするたびに味わっているのだ、と彼は思った。
 彼が便座に腰掛けてウォシュレットの温水ボタンを押し、しばらくしてため息をもらしかけたとき、隣りのボックスに人が入る気配がした。
 二つ並んだ洋式トイレのボックスは、薄い板一枚で隔てられているのみだ。そこではすべて、音がつつぬけになる。すると、知らずしらずのうちに、全身が耳になってしまう。彼はウォシュレットを止めた。