ある一日・昼の巻⑥

月曜の夜、鍼治療(といっても当てるだけで刺さないやつ)を受けて、
だいぶいい感じにしてもらったところで、昨日一日休み、やっと今日、
風邪を治しての出社である。
完全に治っているのかどうかは、まだよくわからない。
夕方になるとまた熱っぽくなるのかもしれない。
でも、これ以上休んで入られないのだ。


ある一日 昼の巻⑥


 音のイメージ喚起力はすごい。それがどんなにかすかな音であろうと、耳から入ったとたん、音は映像に変換されてしまう。とくにトイレの薄い壁一枚で隔てられた空間では、ベルトを緩める音、ジッパーを下げる音、スラックスを膝まで落とす音、便座に腰を下ろすときの、陶器がきしむような音など、すべてが目に見えるよう、手に取るように受け入れられてしまう。
 ところがそこに、どうにも判断がつきかねる音が混じることがある。イメージがまったく浮かばない音。不思議なもので、そういうとき、自分もかつて、そのような、意味不明の音をトイレのなかで立てていたことがあったっけ、と彼は思いだす。
 たとえばトイレで注射器やアンプルなど覚醒剤のセットをとりだし、腕をまくってそれを打ってるところを隣りで聞いていたら、なにをしているかわかるだろうか。
 音だけでは、はたしてなにをしているのかわからないのではないか。いくつか想像して、そのうちのどれかにちがいあるまい、と、自分なりの仮説をたてることはあるかもしれないが。それにしても、ある程度似たような経験を積まないと、想像力もなかなか働かない。
 彼がしたのはそれに近い経験だった。
 昼食の最中に、入れ歯が割れたのだ。ガキっという不吉な音を脳内に立てて入れ歯が割れ、その破片が口の中で食べ物とごっちゃになってしまった。いかん、と思った彼がとっさに考えたことは、「応急措置」のことだった。ようするにとりあえずの切り抜け策、そのばしのぎの妙案、所詮誰も他人にはたいして関心を持ったりしないのだから、なんとか退社時までしゃべることができ、口をあけて笑うことができるくらいの措置。
 それで思いついたのは、アロンアルファという接着剤のことだった。
 口を閉じたまま金を払い、コンビニに直行した。強力な瞬間接着剤・アロンアルファがいくつか並んでいた。張り合わせるものが陶器か金属か、という材質による区別と、液状のものとゼリー状のものとがあった。彼は二種類ほどをものもいわず購入した。ひとつ400円くらいした。社に戻り、トイレに入る。そう、まさにここ、この場所だ。だが、あのときはすぐここを飛び出た。口の中にいろいろ詰まっていたからだ。洗面所で、水を流しながら両手を広げ、口の中のものを吐き出した。食べかけのものが水とともに流れ、入れ歯のかけらが二つ、手のひらに残った。それをさらにきれいに磨いて、手に持つと、ジェットタオルにかざす。ごおーっと強い風が吹いて、手のひらから水分を吹き飛ばす。
 こうしてふたたび、トイレに入った。便器に腰掛けて、作業開始だ。
 アロンアルファの中身を取り出し、割れた入れ歯の片方の断面に沿って先端をすべらせ、液を塗ってゆく。そしてもう片方を、その断面にぴったりくっつける。しばらく押さえて、接着を確認する。さすがアロンアルファ。数十秒の後、割れた入れ歯はすっかり元に戻ったように見えた。手に力をこめてずらそうとしても、びくともしない。あとはこれを口に入れて、上下の歯を噛みあわせたらどうなるか、だ。そんなことを考えていたところに、だれかがとなりに入ってきた。からだから汗が噴き出した。