ある一日・昼の巻⑦

風邪を自覚して一週間。
ようやく回復したという実感がある。
でも気管支に少し後遺症。


ある一日 昼の巻⑦


 彼はいま、トイレで便座にすわり、ウォシュレットやA感覚に続いて「音」のイメージ喚起力について考察しているところだ。その過程で、過去に、割れた入れ歯をアロンアルファで緊急修理した体験を回想している。
 いま、彼の回想の中で、左手にアロンアルファの小さな容器、右手に貼り合わせられた入れ歯を持った状態で、となりに人が入ってきた。
 彼の目下の課題は、それぞれの静かなる収納だ。ああ、しかしそのときすでに、無情にもアロンアルファは修理された入れ歯の表面を伝い流れて右手の指に達し、中指の腹と入れ歯のプラスチックを密着させていた! 入れ歯が指から離れなくなってしまった!
 彼がアロンアルファの恐るべき接着力を知らなかったわけではない。なんども失敗しているので十分知っている。だから出来る限りの用心深さで、接着面以外に液が漏れないように塗ったつもりなのだ。だが、となりに人が入ってくるというアクシデントで、つい手元が狂ったか。
 あせりで全身から汗がふき出している。左手を床にまで下げ、とりあえずアロンアルファの容器を置く。左手が自由になった。体を起こし、自由になった左手で、右の手のひらに乗った入れ歯をつかむ。ゆっくりと持ち上げる。痛い。入れ歯のプラスチックにくっついた中指の腹が引っ張られている。かまうものかと力を入れる。イテテテ。でもしょうがない。右手も反対方向に力を入れると、ばりっと皮膚がはがれるような思いとともに、入れ歯がとれた。
 よかった! さて、でもまだ終わりではない。貼り付けた入れ歯をそのまま口に入れるわけにはいかない。でもこのまま外に出て、洗面所まで行って、入れ歯を水ですすいでから口に入れるためには…やはりとなりの人間が邪魔だ。もうしばらくここでじっとしていよう。床に置いたアロンアルファの容器も、口をふたで閉じて、しまわないといけない。いつまた必要になるかわかったものではないし。……
 こういった過去の経験があるものだから、彼はとなりのトイレに入った人間が立てる音で、その人が何をしているか、だいたいのところ想像がつくのである。それでも、はたして、音だけで「トイレでアロンアルファを使い入れ歯を接着しようとしたら、アロンアルファの液が手に流れて入れ歯と指がくっついてしまいあせってる様」なんて想像がつくものかどうか。難易度は相当に高いといえそうだ。シャブ打ちなどのほうが、まだわかりやすいといえるかもしれない。
 手帳とボールペンなどを取り出して、なにかメモをしているなんてようすは、音で想像がつく。彼はそれも何度かやっており、ようするに彼が想像できるのは自分の経験の範囲にすぎないともいえそうだ。
 回想から醒めた彼は、となりのトイレに入った男がこちらに耳を立てているのを感じながら、てばやく尻の始末をし、服装を整えて、ドアを開けた。もう昼休みの時間だ。では、食事に出るとしよう。